大事なもの(こころ)は目に見えない

当たり前ですが、「こころ」は目に見えません。
いま頭に浮かんでいる考えが本当の気持ちなのかどうか…怪しいことも多いのです。
例えば、好きな相手がいたとしましょう。
好きすぎると近づけない‥‥好きなんてとてもじゃないけどなかなか言えません。
もっと好きになると‥‥逆につい冷たくしてしまう。
もっともっと好きになると‥‥相手の些細な欠点を見つけて「ああやっぱりひどい人だったんだ」とつい離れたくなってしまう。
あれ、本当は好きで近づきたかったはずなのに。
なんでなんだろう?なんでこうなるんだろう?自分の行動と本当の気持ちが分からない。そんな自分が嫌になる。何度か同じような後悔が続いた時…。

そんな時に一緒に考えるのは我々精神科医の大事な役目です。
好きになればなるほど、近づいて否定されるのが怖かった。嫌いだと言われ自分が傷つくことが怖かった。自分を守りたくて、その自分の弱さにも気が付きたくなくて、相手の小さな欠点を故意に大きくして自分が離れようとしたのだ。相手ではなくて自分の問題だったと。
話すうち、自分を見つめていくうちに、このような「こころ」の動きに気が付くかもしれません。

このような思考と感情の「解離」は決して少なくありません。
親、兄弟、姉妹、などの肉親者と自分との関係。学校や会社などの組織と自分との関係。社会の価値観と自分との関係。
親が勧める社会的地位の高いもしくは給料の多い仕事に就いたが、深い喜びが感じられない。逆もあり得ます。支配的だったと思う親に逆らって家を飛び出し、家業も捨てた。
しかし、なぜか家業が気になって仕方がない。親が亡くなったのちこんなにも親を愛していたのかと気が付く。

「解離」は当然ながら多くの場合、不満足や欲求不満をもたらしますから深い自己肯定を阻害します。分かりやすくいえば、いつもイライラしがちで満たされない、妬み嫉みが強くなり、他人の幸せが憎くなることが多いのです。

本当の深い願望に沿うことは本当の自分を生きることにつながりますが、それは時として親を含めた他者の意向と対立することもあるわけです。愛されなくなるかもしれません。否定されるかもしれません。怖いことかもしれません。

何が君の幸せ、何をして喜ぶ、分からないまま終わる、そんなのは嫌だ。
アンパンマンには遠く及びませんが、あなたの側であなたを勇気づけたい。
精神科はそういう出会いをする場所だと私は思っています。
我々の有限な人生。
不自由を感じたら、自分を好きになれないと感じたら、偏見を持たず「ひとかけらの勇気」を持って精神科を訪ねてみてください。